田中一が記憶喪失になったのはなぜ?島根のモヒカンの背景を徹底解説

突然、見知らぬ山中で目を覚まし、自分が誰なのか思い出せない——。

そんな“ドラマのような現実”が、いま日本で注目を集めています。

その人物の名は 田中一(たなか・はじめ)

身分証もスマホも持たず、唯一あったのは約60万円の現金と「自分は田中一だ」という断片的な記憶だけ。しかも、その特徴的なモヒカン姿から「島根のモヒカン」と呼ばれ、ネットやメディアで一躍話題となっています。

なぜ彼は記憶を失い、島根の山中に倒れていたのか。

延命水との出会い、大阪・グリコ看板の記憶、そして支援団体との関わり…。謎が謎を呼ぶストーリーの背景には、現代社会ならではの課題や人間ドラマが浮かび上がります。

本記事では、田中一が記憶喪失になった経緯とその背景を徹底解説し、話題の裏に隠された真相に迫ります。

目次

田中一が記憶喪失になったのはなぜ?

田中一が記憶喪失になったのはなぜ?画像

田中一さんはなぜ記憶喪失になったのでしょうか?

一般的に記憶喪失になる要因としては、以下のものが挙げられます。

  • 逆行性健忘
  • 心理的ストレス

この2つが主に記憶喪失に関係してくると言われています!

田中一さんはどちらかが原因となり記憶喪失を起こしたのでしょう!

逆行性健忘(過去の記憶を喪失)

田中一さんの記憶喪失は、いわゆる 逆行性健忘 の可能性が高いと考えられています。

これは、ある時点を境にそれ以前の記憶が断片的、あるいは完全に失われてしまう症状です・・・

特徴的なのは、

  • 発症前の人生に関する情報
  • 家族の存在
  • 職業
  • 居住地

などを思い出せない一方で、発症後に体験した出来事や新たに学んだ情報については覚えていられる点です。

実際、田中一さんも大阪のグリコ看板、島根の延命水といった一部の記憶は保持しています。

しかし、なぜ山中で倒れていたのか、どのようにそこに至ったのかという肝心な部分は空白のままです。

この“部分的な記憶保持”“過去の喪失”というアンバランスさが、逆行性健忘の典型的な姿と一致しているのです!

また、報道によれば頭部外傷などの身体的損傷は確認されていないことから、交通事故や転落などによる外傷性の記憶障害ではなく、心理的な要因によるものではないかとの見方が強まっています。

強いストレスや心的ショックを受けた際、脳が防衛反応として記憶を遮断してしまう「解離性健忘」に近い状態である可能性も否定できません。

実際自分に起きたらとてつもなく怖いですよね…

目が覚めたら記憶がないとか考えられない。

本人もびっくりしただろうね。

心理的ストレスが引き金となった可能性もある!

田中一さんの記憶喪失は、医学的に「解離性健忘」と呼ばれるタイプの可能性も考えられます。

解離性健忘とは、頭部の外傷や脳の病気といった物理的要因ではなく、強い心理的ストレスやショック体験が引き金となって発症するものです。

脳が過剰なストレスから自分を守るため、あえて記憶を遮断するという“心の防衛反応”だと考えられています。

例えば、大きなトラウマや人間関係の崩壊、経済的困難など、本人にとって耐えがたい状況が突然降りかかると、人間の脳は記憶を封印することで生き延びようとします。

このとき失われるのは主に「過去の自分」に関する情報であり、田中さんが現在の出来事を認識し、日常生活を送れていることとも一致します。

もしかしたら記憶がある時に耐えられないくらい辛い経験をされていたのかもしれませんね・・・

 

実際、田中さんは発見当時、身分証やスマホといった“現代生活に欠かせない物”を何ひとつ持っていませんでした。

所持していたのは60万円の現金のみ!

この異様な状況からも、「計画的に準備していたのではなく、突発的に過去を手放さざるを得ない事態に直面したのではないか」と推測する声もあります。

解離性健忘は、時間が経過したり、安心できる環境で支援を受けたり、あるいは何かのきっかけで突然記憶が戻ることもあるとのこと!!

つまり、田中さんの記憶が完全に失われたわけではなく、深層に眠っている可能性があるのです。

島根のモヒカン田中一の経緯

島根のモヒカン田中一画像

島根で目覚めた田中一さんは、一体どうやってここまでたどり着いたのでしょうか。

その経緯についてまとめました!

島根県の山中での目覚め

今年7月、田中一さんは島根県奥出雲町の山あいで、激しい頭痛とともに意識を取り戻しました。目を開けた瞬間に感じたのは、「ここはどこだ」「なぜ自分は倒れているのか」という強烈な疑問・・・

そして、自分の名前すら思い出せないという現実でした。

田中さんが鮮明に覚えている最初の光景は、茂みの中で横たわる自分のそばを通り過ぎていく車の姿だったといいます。

後になって分かったのは、その茂みが国道314号沿いの草むらだったということ。

発症日は逆算すると7月10日前後で、体を起こせるまで数日間もその場で倒れていたとみられます。

かなり脱水状態だったろうね。

思い出せない所持品と不可解な60万円

ようやく身を起こせるようになったとき、出血などの外傷は見られませんでした。着ていたのはTシャツに黒いズボン、そしてサンダル。

近くにはイタリア製のブランドバッグが落ちており、不思議と「これは自分のものだ」という直感だけはあったそうです。

バッグの中から出てきたのは、財布や衣類、時計、メガネ、モバイルバッテリーなど生活に必要な小物。

そして極めて異質だったのは、チャック付きの袋に収められた約60万円の現金!

携帯電話や身分証明書は一切なく、財布にもお金は入っていませんでした。なぜ大金だけが残されていたのか、理由はいまも謎のままです。

なんで60万円も入っているんだろう?誰か入れたのかな?

名水「延命水」との出会い

強い喉の渇きを覚えた田中さんは、坂を歩いている途中で「水」と書かれた看板を発見しました。そこは島根県の名水百選に選ばれている「延命水」とみられます。

この場所を拠点に、田中さんはしばらく野宿をしながら生活をつなぎました。

水場で地元住民と接触する機会もあり、初めて事情を打ち明けることができたといいます。

「なぜ自分がここにいるのか分からない」と訴えた田中さんを、最初は半信半疑で見守る人もいましたが、最終的に出雲市駅近くまで送ってくれる人が現れ、彼は山から街へと下りていきました。

街での生活と人々の助け

街に出た田中さんは、ようやくコンビニで食料を買えるようになりました。その後、キャンプ用品や日用品を調達し、時には電車を利用しながら出雲市や松江市を移動。放浪生活を続けていたそうです。

警察や役所にすぐ相談しなかった理由については、「周囲の人から、時間を置いたほうが家族からの捜索願が出ている可能性が高いと助言されたため」と説明。

また、「もしかすると突然記憶が戻るのでは」という淡い期待もあったと話しています。

生活の中では、多くの人から物心両面で支援を受けました。

その中には携帯電話を譲ってくれた人もおり、SIMカードの購入方法を教わったことで、田中さんはようやくインターネットにアクセスできる環境を手に入れたのです。

警察に行くも手がかりなし

田中一さんの記憶は、時間が経ってもまったく戻る気配がありませんでした。日々の生活はなんとか続けられていたものの、持ち歩いていた現金も次第に減っていき、将来への不安が大きくなっていきます。

そんな中、8月に入るとついに自ら広域交番を訪れ、助けを求める決断をしました!

交番ではまず顔写真を撮影され、全国で出されている捜索願と照合されました。しかし一致する情報は見つかりません。そこで田中さんは、さらに大きな警察署に案内されます。

警察署では身長や体重の測定に加え、指紋も採取され、より徹底的な調査が行われました。並行して市役所の職員も呼ばれ、身元が分からなかった場合に備えた対応も始まりました。

しかし調査を進めても、身元を特定できる手がかりは得られません。

一方で病院にも連れて行ってもらったものの、保険証や身分証がないため診察すら受けられない状況に。頼みの綱である行政の支援も「シェルターは満床のため利用不可」と告げられ、田中さんは再び行き場を失ってしまったのです。

打ち出された「大阪行き」の提案

行き詰まった田中さんに対し、市の担当者が新たな選択肢を提示します。それが「大阪へ行ってみてはどうか」という提案でした。

島根での生活や支援には限界があり、大阪であればより多くの支援団体や公共機関に接触できる可能性がある――。そんな理由から導かれた進路変更でした。

田中さんは、この提案をきっかけに新しい行動を選び取ることになります。

「グリコ看板」を頼りに大阪へ

市の担当者に状況を説明していた際、田中一さんはふと「大阪・ミナミのグリコ看板」を思い出したといいます。数少ない断片的な記憶のひとつが、その有名な看板でした。

市側からは「大阪に行くのであればバス代を負担できる」と提案され、島根にとどまっていても進展は望めないと考えた田中さんは、この提案を受け入れることにしました。

こうして8月13日の朝、大阪へ到着。さっそく道頓堀に向かい、あのグリコ看板の前に立ち尽くしました。しかし20分ほどその場にいても、記憶が呼び戻されることはなく、空白のまま。

田中さんは再び途方に暮れることになります。

市の方も優しいね!バス代負担してくれるなんて!!

救護施設を断り、東尋坊へ

その後、大阪市の区役所で救護施設を紹介されましたが、相部屋という環境に不安を感じ、入所を断念。居場所を失った田中さんは、電車に乗って北へ向かう決断をします。目指したのは福井県の東尋坊でした。

実は、田中さんの脳裏にはもうひとつの断片的なイメージとして「東尋坊」の記憶がありました。ノートに「東尋坊に来たぞ」「自殺します」と書かれた言葉が残っている映像のような記憶です。

ただし、その文字は自分が書いたものではないように感じられたといいます。

さらに、長崎の平和祈念像やフジテレビ、富士山といった他の場所もかすかに浮かんでいました・・・

その中で、大阪から最も近い場所が東尋坊だったため、足を運ぶ決意を固めたのでした。

銃刀法で捕まり留置場で10日間を過ごす

しかし、東尋坊を目指した田中さんを待ち受けていたのは予想外の出来事でした。彼はその後、警察の留置場で約10日間を過ごすことになります。

記憶をたどろうとした旅路は、思わぬ方向へと転がっていったのです。

東尋坊を目指す途中、京都を経由して福井方面に向かおうと考えていた田中一さん。しかし、ふと路線図を眺めていたとき、大阪府内の駅近くにある市役所が目に留まりました。島根で出会った担当者からも「大阪に着いたら役所でも相談してみるといい」と言われていたことを思い出し、「生活保護をお願いしてみよう」と考え、市役所を訪れることにしました。

ところが、相談を持ちかけた田中さんは「行方不明者の可能性がある」と判断され、市の職員が警察へ通報。やがて駆けつけた警察官から職務質問を受けることになったのです・・・

怖いよね〜

名前を問われても答えられない田中さんに対し、警察官は持ち物の確認を始めました。その際、バッグの外ポケットの底から刃渡り約8センチの折りたたみナイフが発見されます。

田中さん自身には所持していた記憶も自覚もなく、ただ驚くばかりでしたが、法律上は所持が認められず、銃刀法違反の疑いで逮捕されてしまいました。

「取り調べで理由を聞かれても、記憶がないので答えられなかった」と田中さんは語っています。

最初こそ「本当に記憶をなくしているのか」という疑念を持たれていたものの、島根県警などへの照会を通じて、徐々に田中さんの状況は理解されていきました。

本人の感触では「7〜8割くらいは信じてもらえたのではないか」と感じたとのこと。

しかし問題は、彼の存在をどう扱うかでした。逮捕から1週間ほどが過ぎた頃、警察や検察の担当者の雰囲気に「扱いに困っている様子」が漂っていたといいます。

ナイフを故意に所持していた悪意があるとは見えないものの、身元が不明なままでは安易に釈放するわけにもいかない。そんな板挟みの中で、田中さんは留置場で日々を過ごすことになりました。

釈放と「更生緊急保護」の適用

逮捕から10日目、検察はついに田中一さんの釈放を決定しました。身元不明のまま留置場で過ごしてきた田中さんでしたが、ここで大きな転機を迎えることになります。

関係者によれば、このときに適用されたのが「更生緊急保護」という制度でした。

更生緊急保護とは、検察の判断で不起訴や執行猶予付き判決となり、身柄の拘束が解かれた人のうち、家族や行政などの援助を受けられない人を対象に支援する仕組みのことだよ!

本人からの申請を受けた保護観察所の所長が、住居や生活の支援を緊急的に手配することで、社会復帰の第一歩を助ける役割を担っています。

田中さんの場合も、身元を証明できず頼れる親族もいない状況だったため、この制度の枠組みによってサポートを受けることができました。

グループホームで得た「居場所」

更生緊急保護の適用によって、田中さんは大阪府内のグループホームに入居。ようやく安心して眠れるベッドと、身を置ける「居場所」を確保できたのです。島根の山中で目覚めてから、放浪や拘束といった不安定な日々を経て、ようやく生活の基盤が整い始めた瞬間でした。

田中さんにとってこのグループホームは、失った記憶の回復を待つための安全な拠点であると同時に、新しい人とのつながりを築く場ともなっていきます。

早く記憶が戻るといいね!

記憶喪失時に田中一が持っていた物

田中一さんが島根の山奥で目覚めた時に持っていた物をまとめました!

田中一の所持品

その時の所持品がこちら↓↓

  • かばん
  • 財布(空の状態)
  • カードケース(空の状態)
  • 時計
  • メガネ
  • モバイルバッテリー
  • 衣類
  • 折りたたみ傘
  • タバコ
  • ライター
  • QUOカード
  • 現金60万円

    です!

    田中一が覚えいてること

    田中一さんが覚えていることは以下のものになります!

    • 【大阪】グリコ看板
    • 【福井】東尋坊
    • 【長崎】平和祈念像
    • 【東京】フジテレビ
    • 富士山

    です!

    九州から関東までのことを覚えているので、いろんなところに足を運んでいた方なんだなというのがわかります。

    筆者的には、トラック運転手などでいろんな場所を回っていたのかな〜と思ったりもしました。

    田中一が覚えていないこと

    続いて田中一さんが覚えていないことはこちら↓↓

    • 目覚める以前の記憶
    • 自分の名前
    • 有名人の顔や名前
    • 料理のイメージが分からない

    料理のイメージが分からないというのは、ラーメンやカレーと言われてもイメージがパッと思いつかないそうです。

    これらのことが田中一さんは分からないとのこと。

    モヒカンにしているのは誰かに思い出してもらうため

    田中一さんは、島根県の山中で目覚めた時からモヒカン姿だったとのこと。

    今でも彼はモヒカン姿で日々を過ごしています!

    モヒカン姿で過ごす理由は、「誰かに思い出してもらうため」とのことです。

    テレビなどのメディアに出た時、当時の姿であれば誰かに気づいてもらう可能性は上がりますよね。

    早く誰かが気づいてくれるのを願います!

    まとめ:田中一が記憶喪失になったのは逆行性健忘の可能性が高い

    以上田中一さんについてまとめてきました。

    田中一さんは、今も誰か覚えいている方を探しています!

    もし誰か気付いた方がおられたら

    NPO法人「ぴあらいふ」080-6664-7759

    までご連絡をお願いします!

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